【3月11日の記憶.01】渋谷から埼玉への徒歩帰宅を決めるまでの2時間。

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Autumn Shibuya

東日本大震災、あれから3年が経ちました。これ以上記憶を曖昧にしないためにも、残しておこうと思います。自分のために。

遅めの昼食を終えてオフィスにいた

その日、僕は渋谷の某社オフィスにいました。桜丘町にある、某建物です。遅めの昼食をとり、自分の仕事用デスクについて30分ほどした頃でした。

グラリ。

この建物は設計が古く、昭和中期に建てられたもので、現代建築ではあり得ない仕様がいくつかあります。その一つが、柱の少なさでした。大きなフロアに、ほとんど柱がないのです。柱が無いとどうなるか?それは、簡単に揺れます。

その日も最初は人が歩いていることによる揺れだと思いました。でも、違いました。なぜか?縦揺れが来たからです。最初に震度3くらいの縦揺れ。その後、10秒以上たっても揺れは収まりません。フロアの1/3は様子をうかがい、残りの人々は普通に仕事を続けます。

「どうもおかしい」

そう、おかしいんです。揺れがおかしいんです。言葉で表現しがたいのですが、静岡県にて群発地震に合ってきた僕にとって、その時の揺れはあきらかに奇妙でした。揺れが引いていかないというか。そして、ほんの少しだけ揺れが強くなりました。これはおかしい。長い上に揺れが強くなってきている。すなわち、これは大地震に違いが無い、この段階でそう確信しました。それでもまだ、周りは普通に仕事をしています。

「これはダメだ、逃げなければ」

そう思い、フロア全体に「いいから外へ逃げろ!」と大声で伝えます。それでも反応の薄い人が半分。

「大きな地震で崩れるぞ!」

そう脅かすと、やっと重い腰を上げて周りが逃げ始めました。関東で仕事をする人って、こんなものなんでしょうか?

階段へ到着すると、うまく階段を降りることが出来ません。正確には、まっすぐ降りられない。まるで酔っ払っているかのようです。そこでやっと気がつきました。

「これは、すごい揺れているんだ!」

それが東日本大地震との出会いでした。

 

大きな音を立てて揺れる「建築物」

外に出ると、異様な光景が待っていました。渋谷駅周辺の高層ビルが、凄まじい揺れを起こしているのです。ゆらーり、ゆらーりと、いま都内を襲っている地震の周期とは全く異なった、波長の長い揺れ。

「ああ、これが免震なのか」

となぜか冷静に思ったのを覚えています。そんなとき、駅の反対側から

「ガガガガガン!!!」

と凄い音がしました。たとえるなら、貨物列車が連結をするときの、あの轟音です。

その音の主は、建築中のヒカリエでした。まだシートのかけられたヒカリエが、その周期の長い揺れをするたびに、鉄骨同士のぶつかる激しい音を放っていたのです。なぜか思い出すのは9.11の崩れ落ちるWTCビル。このまま揺れが続けば、建築途中のヒカリエが崩れてしまうのではないか…僕はそんなことを思いました。

揺れが収まる…と思ったらまた揺れて、を繰り返すこと数度。やっと揺れが落ち着きました。これだけ大きな揺れがあっても、崩れたりするようなビルがまったくないところに、日本建築の素晴らしさを想ったりもしました。しかしこの時点で、大きな問題が起きていたのです。その問題とは、携帯の不通です。皆が一斉に携帯電話を使ったのか?携帯電話は全くの不通となっていました。

そこで、とにかく状況を確認しようと、僕はすぐに渋谷駅へと向かいました。あわよくば、おそらく実施されるであろう運転停止の前に、帰れる電車があればいいなと。

歩道橋の上はごったがえしており、渋谷駅へ徒歩5分のところが10分以上かかりました。そうして中央口の改札へ付くと、すぐに黒板が目に付きます。

「JR全線運転見合わせ」

との非情の文字。そりゃ無理もないはずなんですが、やはりがっかりします。そして駅にいる間も、容赦なく余震が来ます。ガツンガツンゆれる度に、しゃがみ込む乗客。駅は構造的に安全なはずでしたが、それでもこの揺れでは不安に思えました。

ただ、電車が出ないのであれば、駅にいる必要はないのです。気がつけば改札前にはどんどん人が集まってきます。これは判断を誤ると身動きがとれなくなるケースに思えました。

そこで仕方なく、また情報を集める必要を感じ、駅から離れることとしました。

圧倒的な絶望感のある画

さて、ここで僕はどうしたか?今から考えれば愚かな話ですが、その、設計の古い危険なビルに戻りました。いつ崩れてもおかしくなかったはずなのに、なぜか戻ってしまいました。そして、いつものようにPCを再開し、地震速報を見に行きます。

そこで、最初の絶句が訪れました。

「東北地方 震度7」

少し記憶があいまいですが、確か最初から東北地方は震度7が表示されていたように思えます。というか、震度7って…。そこでいつものようにTwitterで現地の状況をさがしますが、ほぼ書き込みはゼロ。それもそのはず、後で知ったことですが、地震によってかなりの基地局が損壊を受け通信が出来ない状態にあったそう。

幸いにしてTwitterで妻との連絡がとれ、少し安心していたのと前後して、UstreamでNHKを流すユーザーの存在に気がつきます。そもそもフロアにはTVがなかったため、これにはとても助かりました。と同時に、絶望も与えてくれました。

目の前で、家が波に押し流されていくのです。そう、津波です。津波が中継されているのです。しかし、僕の知っている津波とは全く違います。まるでドミノが倒れるかのように、地上を少しずつ黒一色で染めていくような、そんな光景が広がっているのでした。もちろん生放送です。人が車が波にのまれる様子が、目の前で刻々と繰り広げられるのでした。

「渋谷に残っている場合ではない」

と気がついたのが、このタイミングです。JRも不通になっている今、判断としては「避難所に行く」「友人の家に行く」「歩いて帰る」の3つしかありませんでした。それが今でも忘れない、このタイミングです。

そう、僕は歩いて帰る決心をしたのでした。

ここから30キロに渡る訓練ではない、本番の徒歩帰宅がはじまったのです。

(つづく)

 

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